震災文集

宮城県サルコイドーシス友の会会報「みんなの輪」平成24年3月31日号(震災特別企画文集から)

あの日あの時
3月31日あの日は茂庭台に母を見舞いに行っていました。二時間かけて若林の自宅に帰るまで三十数年前の大地震を思い、ただただ不安だけが募っていた。その当時私は南小泉にいて宮城刑務所のレンガ壁が崩れ落ちるのを見、音を聞き、今でもその時の恐怖が残っていたからです。この震災で多くの患者会の皆さまの連絡が取れないとのこと、この現状を乗り越えお元気に過ごされていることをお祈りいたします。
私は10年前に発病し、肺と眼に症状があります。肺は良くなりましたが、眼は未だに症状が落ち着きません。3月25日に両眼眼圧が50に上がり、また5月16日に右眼48、5月23日に左眼45と続き通院致しました。この病はストレスと疲労から来るものと言われているのを知ったような気にもなりました。今はこのまま落ち着いてくれる事を念じています。皆さま方と情報を分け合い、今後の治療に役立てたいと思います。友の会でお会いできることを楽しみにしております。
匿名 祈の鼓

地震の時
3月11日東日本大震災の発生は、自宅でひとり張りきってテレビを見ていた時でした。慌てて私専用の柱に必死に掴まり、揺れが収まるのを待っていたところ、近所の人が「○○さーん、大丈夫ですかー。」と大声で呼ぶ声で呼びかけている声に、我に戻り、すぐ近くの義母の家に行くと、「ここに居るのが安全と思ってベッドで寝ていました。」という義母の返事に安心して、落ち着きました。
ぶどう膜炎の炎症が進み、三日に一錠だったステロイド剤が、一日に一錠、3月4日から一日二錠に増えたところでした。地震が大の苦手で腰に痛みが走り、いつもは動けなくなっていたのですが、増えたステロイド剤が、本振その後の余震の恐怖から救ってくれ、安定した生活ができました。薬の威力に感謝していますが、病状が良くなり薬の量が減ることを祈りつつ、元気に諸活動に励んでいます。
家の屋根瓦などが損壊し、修理を迫られましたが、家族全員けがもなく、元気でいられることが一番の幸せと感じております。
匿名S.T

不自由な生活
このたびの震災で皆さまに大変ご心配をおかけしました。幸いにも、私どもの住宅は高台にあるため津波の難を免れ食器類、電化製品、箪笥の被害で済みました。電気、水も長期間使えず不自由な生活を送りましたが、幸いにも水は近くの沢水を利用し大変助かりました。特に水のありがたさを痛感しました。当町は8割の住宅が津波に流されました。新聞報道、テレビなどを見るにつけ自然の恐ろしさを痛感させられました。このような体験はしたくないものですね。震災後6カ月が過ぎましたが町には店舗も出来、9月に入り女川魚市場ではさんまの入港もはじまり、町は復興、復旧に向かって確実に前進しています。
日野俊孝(女川町)

病気があっても元気に
宮城県にサルコイドーシス友の会ができて、とてもうれしく心強く思っています。私がこの病気と分かってから10年が経ちました。それまでは、風邪をひいたり、腰痛を繰り返したりしていましたが、自分は健康だと思っていたので、とても驚きました。
現在は、呼吸器内科では検査と経過観察のみですが、眼だけは未だ、毎月のように受診しています。サルコイドーシスによるぶどう膜炎で、日常的にはいつもまぶしく、すっきりと見えず、不便です。
3月9日に(震災の前々日)、茨城県の日立市で東日本支部友の会主催の眼科の先生の講演会に参加しました。眼サルコの参加は10人位だったでしょうか。講演の後に集まりがあり、お互いに症状が理解できるだけに、積極的な話し合いになりました。視力が落ちても、ボランティアの協力で海外旅行をした人、少し快方に向かった人、横ばい状態の人と様々でしたが、皆さんとてもパワフルでした。
山口敦子

震災時その前その後
2011年3月1日定期健診の為、労災病院泌尿器科を受診、その時腎結石の異状があり3月7日入院、3月8日対外衝撃波結石破砕術を9時~実施、3月9日レントゲンの結果良好とのこと、3月11日午前中退院、入院中点滴の為に入浴ができなかったので当日の入浴を楽しみにしていた所、14時46分M9.0東日本大震災が発生。以後約一ヵ月間4月8日の市ガス開栓時まで入浴不能。垢では死なないとは言いますが、体を拭くだけよりは、浴槽に入るとでは雲泥の差を感じた約1カ月間でした。
他に被害はなかったのでぜいたくな悩みでした
尚、この場をお借りして、この度の被災に遭われた方々の1日も早い復旧、復興されること及び亡くなられた方々には、お悔やみを申し上げます。
匿名 北極の白熊

家族との絆
3月11日の東日本大震災が起きてからはや5カ月が経過しました。千年に一度という未曾有の大震災により、尊い命が奪われ、家族がバラバラになったり、親を失った子供など、今もなお苦しんでいる多くの方がいらっしゃると思いますと、胸が痛みます。私共は青葉区にいてお皿が数枚割れた程度の被害で済みました。
3月11日は夫と水戸の偕楽園へ行く予定でしたが、前夜母が急に具合が悪くなり、急きょ水戸行きを取り止めました。後から考えますと、行っていたら一週間は帰ってこれなかったと思いますので、母が私たちを守ってくれたのかしらと不思議な気がしております。地震が起きた日は、母を病院へ連れて行き、帰ってきてすぐに起きました。大きな恐ろしい地震でした。水道は大丈夫で電気は翌日に回復しガスは4月末までつきませんでした。3月11日は中山に住んでいる妹の子が付属中にいるので迎えに行き、一泊させました。翌朝、塩釜の避難所から息子夫婦、家族4人がまいりまして、結局4月末まで同居生活をしました。食料はなくなるし、孫のおむつもなくなるし、調達に苦労しました。義弟が食料を持ってきてくれたり、私共もガスコンロやガスをあげたり、お互いに助け合いました。東京におります息子たちも心配して連絡をくれたりと、この震災で家族の絆というものを再確認出来ました。そして当たり前の普通の生活の大切さを気づかされ、命の尊さを改めて考えさせられました。地震、津波、そして原発事故と、今も多くの方々が厳しい境遇に追い込まれて、苦しんでいる事と思います。皆さんが一日も早くもとの生活に戻れて安心して生活できるよう、心より願っております。
匿名 青葉区のトイプードルより

心の葛藤
平和な暮らしの中に突然の大地震が起こった。頭の中では何が起きているのか分かっているつもりだったが、何をどうして良いものやら見当もつかずただただ右往左往するばかりでした。
電気が止まりローソクの明かりの元での食事は不思議なほど味気がなく感じた。また、水の出ない不便さも今まで経験した事ないほど苦痛だった。水の確保に情報もなく、家にこもりっきりだった私たち家族に山形まで汲みに出かけた知り合いがいてとても助かった。特別においしく頂いた。また、トイレも使えなかったために雪を集め溶かすことにしたが、手足の冷えに悲鳴を上げた。その生活パターンができつつある中で、ある日津波の一コマをテレビで見た時から私の体は微妙に変化していくのを感じた。「逃げて!早く・・・走って!」画面に向かって叫ぶ姿に家族は少々驚いた様子だったが、さほど気にせず、見るのが辛いとその場から皆離れて行きました。その直後から涙があふれて止まる事がなかった。また、それと同時に動悸がしてきた。脈も二拍も飛んで気持ちが悪く横になるが落ち着かなかった。夜になっても、体は疲れているが一睡も出来ずますます気持ちが暗くなってしまう。食事も目の前にあるけど食べたいという欲もなかった為に、10キロ近く痩せてしまってあせってしまいました。
ラジオの情報から自分で何ができるのか?何をしたら被災された方々に喜んでもらえるのか?毎日が自問自答の日々でした。この体でやはり何ひとつ手助けを出来ない事を自覚し始めた時に、罪の意識さえ芽生えてしまい自己管理が難しくなりそうでした。少しずつ心の中が壊れかけ始めた頃に、親類、友達、幼なじみの方々が次から次へと励ましのお電話を頂きました。「負けないでね、苦しい事はいつまでも続かないから頑張るのよ!」その言葉を聞いて号泣してしまいました。何よりのお薬でした。
「自分の体は自分だけのものではない、世に生まれてきた以上、人の為に生きていくのも価値があるのかな」と勝手に思い込みながら、少しずつ暗闇の中から抜け出られた思いが致します。一時は生きる事より楽になりたい一心でしたが、周りの方々の温かい心に触れて改めてひとりでは生きて行けないんだなって事を思い知らされました。たまたま病気はしましたけれど、世の中には辛くても前向きに一歩一歩進んでいる方達もたくさんいらっしゃるので、私もその方のようにがんばっていく決心をした次第です。
最後に震災でご連絡がつかない会員の方々が居られるようですが、一日も早いご無事がご確認出来ます事を心よりお祈りいたします。
匿名 ヒマワリ

震災から1年
私の実家は岩手県陸前高田です。駅をはじめ繁華街すべてが津波に流され、大変な犠牲者が出た街です。姉夫婦も一家3人で津波にのまれましたが、幸い姉だけは、気を失ってがれきに引っ掛かっているところを、波が引いた隙に地元の消防団に助けて頂きました。助けられた2分後にまたも津波が押し寄せたそうです。本人は大船渡の病院で気がついたとのことでした。どれだけ恐ろしい体験だったのか私には想像すらできませんが、当の本人はけろりとした表情で様子を話してくれます。避難所にもたびたび足を運び、知り合いの安否確認も手伝いました。避難所に入ると皆さん無口で、何か必死で我慢している様子がうかがえました。砂埃が舞う道路では大阪府警の警察官がパトカーの外で、埃をかぶりながら交通整理をしておりましたし、行きかう車両は自衛隊の車両がほとんどで、その光景から、私のなつかしい故郷はなくなってしまったのだと実感しました。印象に残っていることは、避難所の仮設風呂の前で、背筋をピント伸ばし休めの姿勢をした若い女性自衛隊員が、笑顔で声をかけてくれたことです。「お風呂はいっていきませんか?男湯、女湯ありますよ」その言葉をかけてもらって、何か気持ちが楽になったのを今でも覚えています。災害現場に行くと、知らず知らずのうちに自分自身が緊張状態になっているのだなと気がついたのは、帰ってきてからの事でした。あの言葉で一瞬、張りつめていたものが解きほぐされたのでした。そのあとも尋常でない疲れが続き、1週間近く回復しませんでした。毎日避難所で過ごされている地元の方々の疲労は想像を絶するものだと想像しました。一年経った3月11日は、各放送局の特別番組を「1年前からあまり変わっていないな」と思いながら見ておりました。
がれきを片付けただけで、肝心の住民の生活が、未だに不自由を強いられている様子でした。ただテレビを見ながら、心の中で頑張れと叫ぶ事しかできない自分がそこに居ました。
さて、宮城県サルコイドーシス友の会も三年目を迎えました。結成してまだ経験の浅い会ではありますが、残念なことに、昨年の活動は震災の影響で医療講演・相談会が中止となってしまいました。この一年、月一回のペースで役員会を重ねてまいりましたが、なんとか正常活動が実施できるまでになりました。会運営を存続させたい一心でご自身の病気と闘いながら、役員会に足を運んでいただいた皆さまのおかげと、感謝申し上げます。今後とも会員の皆様のご協力お願い申し上げます。
事務局 畠山 正四郎

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